
「生物は遺伝子の乗り物に過ぎない」Byリチャード・ドーキンス
低資金でFIREされたお方が「何も為さない毎日の繰り返しで果たして生きる意味はあるのか?」と悩んで鬱になられたとユーチューブ動画で吐露されてました。
ただ、上記のお方のような低資金FIREだけでは無く、【FIREして後悔する人の特徴】で取り上げたお方のようにFI=経済的自立を達成されたリタイアーでも悶々と悩まれている方も多いようです。
やはり『小人閑居して不善をなす』のことわざでは無いですが、普通の人がリタイアして目標も無く、暇になり、ただ考える時間だけが有り過ぎると、自分はこのままでいいのかとジリジリと焦るモノなのかもしれません。
この感覚は、正直、僕も遥か昔の学生時代に味わった事があります。
高校の夏休み前に、クラス全員に担任から、「折角の夏休みの長い時間を何もせずに過ごすのは良くない。それは無為と言って、一番ダメな事である。」と言われたのです。
純真無垢な当時の山中少年は、「うん、確かに、その通りだ。よし、僕はこの夏にドーテーを捨てるぞ」と心の中で誓ったのです。
しかし、帰宅部なので運動するでも無く、進学する意欲も無かったので勉強するでも無く、金も無いのでどこか出かける訳でも無く、毎日ただダラダラと過ごしてるだけでした。
そうこうするうちに、刻々と夏の終わりが近づいて来ます。
自分の身には何一つイベントも思い出も残らないまま、カレンダーだけは1日1日と虚しく過ぎて行きます。
このまま何の成長も無く、貴重な青春の1ページが終わってしまうのかと、毎日ジリジリと焦りまくってたのを思い出します。
結局、友達も居ないコミュ障ブサイクに出会いなぞ有ろう筈も無く、DTから卒業するという当時の山中少年には到底不可能な超絶目標は達成出来ずに、僕の夏休みはタイムアウトになってしまったのでした。_| ̄|○
閑話休題。
社会は古来より「人間生まれたからには、何かを成し遂げなければならない」という価値観を刷り込んで来ましたが、これは、その種族の構成員を団結させ、他種族に打ち勝つ為に考え出された、便宜的な価値観です。
例えば少年漫画では友情・努力・勝利の三大原則を典型的なヒーロー像として描いたりして、困難な目標を持って何事かを成し遂げる事こそが素晴らしい!と子供の頃から洗脳されていく訳ですね。
そのようにして、より勤勉で団結力のある人間の集団が、生存競争に勝ち抜いて来たのです。
言い換えると、社会の為に貢献したい遺伝子を持った種が多い集団の方が、淘汰圧を生き残れたという事なのです。
今いる人類の多くが社会的欲求や承認欲求が強いのはまさにDNAの為せる業なのです。
人は何の為に生きるかというテーマは古来より、宗教家や哲学者が挑んで悟ったような事を宣ってますが、正解が無いのは当然です。
だって、人間なんて、自分のコピーを残す事を目的としてプログラムされた遺伝子によって、たまたま今の環境にマッチして生き残っているだけの生き物でしか無いのですから。
遺伝子が複製され易かった個体が、自然淘汰によってただ存在してるだけなので、そこには何の意味も無いのです。
つまり、本質的にはアリやミジンコと変わらないのです。
人間は生き物の中でも、下手に知性が発達している為、生まれたからには何か意味がある筈だと勝手に思い込んで、自己に存在意義を求めがちです。
そうして「人間生まれたからには、何かを成し遂げなければならない」といった極く普通の価値観を刷り込まれてる方にとっては無為に過ごす事自体がストレスとなり、ハヤブさんや他のFIREに失敗された方のように鬱になってしまわれるのでしょう。
人間はただの遺伝子にプログラムされた箱に過ぎないのなら、ただただ自分の好きなように生きていればいいのです。
たかが、自分のコピーを残す事を目的としてプログラムされた遺伝子の乗り物の末裔なんかに、もとより高尚な意味なぞ存在しないのですから。
くどい様ですが、栄誉・栄光・賛美・名声・栄達・勇名・名誉といった他者からの評判は人間が集団として他集団に打ち勝つ為に、後付けで作った社会的価値観でしか無いのです。
故に社会から離れ個人の自由を求めるアーリーリタイアーには、本来無意味な価値観です。
そして、そもそも人間に生きる意味なんて無いという当たり前の原理を知れば、社会からの承認欲求なんてまるで無意味と気付く筈です。
その境地に至った人ならば、世俗を離れ、自然の中にやすらぎを求める、静かで安寧に満ちた幸福なFIREライフを享受出来得るのでしょう。
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